温故館(おんこかん)や大ケヤキの ある坂道(さかみち)を明治時代は 新道(しんみち)とよんでいました。 この新道のわきに水道を記念す る石碑(せきひ)がひっそりと建って いることを知っている人はあまり 多くありません。 新道水道(しんみちすいどう)とは、いっ たいどんな水道だったのでしょう。 |
水道記念碑(すいどうきねんひ) |
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大正のおわりごろの新道水道 コンクリートのおけのしくみ (大ケヤキの下におけが見えます) (おけのことを井戸とよんでいました) |
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新道にあった、おかし屋 (二葉軒)明治中ごろ 新道水道の図 |
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明治7年に新道ができると料亭(りょうてい:高級な料理屋)や旅館(りょかん)などがどんどんできて、あっという間に 道の両側に三十けんもの家が建ちました。人々ははじめのうち共同井戸(きょうどういど)を作って利用しましたが、 水の量も少なく家から遠くはなれている人もいて不便でした。 そこで住んでいる人みんなで協力して水道を作ることになり、地下道をほり始めました。場所は今の温故館の 向かいがわの水道記念碑(すいどうきねんひ)が建っているところです。 地下道の長さが50メートルぐらいになったとき、とうとう水がわき出してきました。明治12年3月13日のことで した。みんなの喜びはたいへんなもので、その喜びの大きさは3月13日を水神(すいじん)まつりとして毎年おいわ いするようになったことからも分かります。 わき出した水は竹のパイプを使って大ケヤキのところまで流し、7つの大きな木のおけをと中にうめて水をため て近くの家々で利用しました。このおけのことは井戸とよんでいました。 しかし、竹のパイプと木のおけはくさりやすかったので、大正時代(たいしょうじだい)になって竹のパイプを鉄の、 パイプにし、木のおけもコンクリートで作りかえました。 ところが大正12年の関東大しんさいの後、水脈(すいみゃく)が切れたのか、わき出す水の量がぐっと少なくなっ てしまいました。 それでも人々は水を大切にしながら新道水道を利用しつづけてきましたが、昭和31年に県営水道(けんえい すいどう:じゃ口のあるふつうの水道)が通って、80年間もの長い間人々の生活をたすけてきた新道水道はその 役目をおえました。 (海老名中学校の元の校長先生だった池亀茂先生のお話) |