海老名市には勝瀬(かつせ)
よばれる地区があって、そこに
は津久井(つくい)の日連村(ひづ
れむら)
の勝瀬地区からたくさん
の人たちが移住(いじゅう)し、む
かしと同じ地名をつけて住んで
います。

 勝瀬の人々はどうしてふるさと
をはなれなくてはならなかったの
でしょうか?
八坂神社にある移住記念碑(いじゅうきねんひ)
     勝瀬移住の年表
     1938年(昭和13年) 神奈川県議会で相模ダムの建設が決まる
     1941年(昭和16年) 相模ダムの建設がはじまる
                   水にしずむ村の移住がはじまる
     1947年(昭和22年) 相模(さがみ)ダム・相模湖(さがみこ)が完成する    


 
相模ダム 現在の相模湖(さがみこ)


相模湖(さがみこ)にしずむ前の勝瀬地区

  しずむ前の勝瀬地区のようす

 湖底(こてい)にしずむ勝瀬
      日連国民学校(ひづれこくみんがっこう) 小野達雄

  わが勝瀬は、ダムができるために湖底にしずむので
 ある。 ああ、湖底の勝瀬よ・・・。  

  幼時より山川草木と遊びなれたるふるさとを後にオメ
 オメと元気よく移られようか。イヤデイヤデしかたがな
 い。

  アノ山、アノ川、メダカをすく いにいったアノ堀、山の
 ぼりをしたり、水あびをしたり、雪のふった日にスキー
 をしたりしてくらしてきた勝瀬。
 そして、学校や先生、友だちともわかれるのはかなしく
 てむねがいっぱいである。

  ただ、お国のためと思えばまたうれしい。そし て勝瀬
 が湖底となって後のけしきがながめられると思えば楽
 しいような気もする。

  昼につけ夜につけ思い出すのはわがふるさとである。

  
勝瀬の国民学校生(小学生)の作文

海老名に運んできたお寺


勝瀬の人々は、ふるさとの大切な建物やおじぞうさま
などを、水のそこにしずめてしまうのにしのびなく、わざ
わざ、海老名まで運んできて再建(さいけん)しました。

勝瀬にあった鳳勝寺(ほうしょうじ)
解体(かいたい)して運ばれた鳳勝寺(ほうしょうじ)の本堂
 
勝瀬にあった、六地蔵(ろくじぞう)と百体仏(ひゃくたいぶつ) 運ばれてきた百体仏
 同じ地名をつけ、お寺の本堂や神社、お地蔵
 さままで運んでこなくてはいられなかった勝瀬
 の人々の気持ちを考えてみよう。
同じ名前の神社をつくりました