いまから千二百年もの遠いむかしのお話です。
天平(てんぴょう)十三年、聖武天皇(しょうむてんのう)は、人々の平和な生活をねがって国ごとに国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てるようにめいじました。相模(さがみ)の国では、海老名がよい土地であったのでここに建てられることになりました。
やがて、天をつくような七重の塔(しちじゅうのとう)をはじめとした国分寺ができ、そこから北に五百メートルほどはなれた場所に国分尼寺ができました。
その頃、国分寺の下を流れる相模川(さがみがわ)で、魚をとってくらしていた若い漁師(りょうし)がいました。その漁師はいつしか国分尼寺の尼(あま)さんと知り合い、たがいに愛し合うようになりました。
尼さんは結婚(けっこん)が禁(きん)じられていましたので、二人はみんなに見つからないようにひっそりと会っていました。ある日のこと、若者がだまりこくってこまった顔をしているので尼さんは
「どうしたのですか。何か心配なことでもあるのですか」
とたずねました。若者はなかなか口を開かなかったのですが、やがて決心し、
「じつは、国分寺があまりにもまぶしくかがやくので魚が遠くへ逃げてしまい、漁(りょう)をしても魚がとれないのです。それでこまっているのです。あの国分寺さえなければ………」
とわけを話しました。
尼さんもどうすることもできないので、だまってしまいました。二人はさびしそうにその場はわかれていきました。
その夜のことです。
「火事だあー。火事だあー。国分寺がもえているぞー」
漁師のことを思うあまり、尼さんが国分寺に火をつけたのです。一度もえはじめた国分寺は、けすこともできずに一晩(ひとばん)のうちに焼けてなくなりました。
尼さんはとらえられ、丘の上に生きうめにされてのこぎり引きの刑(けい)になってしまいました。
その後、ふしぎなことにその場所から一滴、二滴とわき水が流れ出てきました。村人は尼さんが罪(つみ)をわびて流している涙(なみだ)だといって、そのわき水を「尼の泣水」と呼びました。
尼さんがおしおきされた丘は、現在の海老名小学校の上の台地です。尼の泣水は、昭和四十年ごろまで流れ出ていましたが、まわりに家が出来たりしていつとはなしにかれてしまいました。
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